院長 シスターテレジア 齋藤 弘子
昨年の11月末に、一つの共同体になったことは皆様にもお知らせ致しましたが、
シスター達は皆元気で東室蘭の信者さんと共に恵みのイースターを迎えることが出来ました。
毎日の『教会の祈り』は聖堂の反響の良いこともありますが、一つの共同体になって豊かになってきたように感じています。
昔から聖堂の照明は専心を助けるためにと少し薄暗かったですが、今は外の景色も良く見えて明るく、春の息吹も実感出来、
大自然と共に神様を賛美している一体感があり嬉しいです。
新しい聖堂は2階で市道に面しています。
今は日の昇るのが早くなりましたが、12月頃の朝6時前後は薄暗く、
新しい建物が修道院とまだ知らなかった通行人が驚いて明かりの漏れる聖堂を見上げていました。
ある日、赤いジャケットを着た男性が聖堂の方を見上げ、十字を切りながらジョギングをしておりました。
どんな思いで十字を切られたのかは分かりませんが、朝の祈りのために玄関に入った私にはとても印象的な光景でした。
『十字切る人の末期に時雨けり』
この句は、カトリック中央協議会会報に掲載されていた事務局長の前田万葉神父様のものですが、
病者の塗油の秘跡の呼びかけにも全く反応のなかった方が、十字架の印による塗油を額と両手のひらに力強く印した時、
臨終の床にあった彼が「右手を大きく動かし、三度十字を切り始めた」とのこと。
前田神父様もご家族の方も、どんなにか驚かれ、神様の働きを実感されたことでしょう。
病気になって動けなくなっても、話せなくなっても、祈れなくなっても、そっと十字を切れたら、最高の祈りとなるでしょう。
たとえ、十字を切れなくても、主の十字架を思う時、主の復活に満たされたら何と幸せなことでしょう。
私達は、一日に何回十字を切るでしょうか?5回?10回?15回?20回?
では、どんな心で十字を切っているでしょうか?
寝る時に、祈ることも出来ないほど疲れていたら、せめて、十字を切って「お休みなさい、神様!」だけでも良いと思いますが、
それにしても、臨終の床にある人を思う時、一八八殉教者を思う時、私の十字を切る心の姿勢は何と幼稚なことかと思い知らされました。
ミサの中で「主の死を思い、復活をたたえよう。主が来られるまで。」と声高らかに信仰の神秘を宣言しながら、
日常生活の中では十字架を避けようとしたり、十字架を担っている人の痛み苦しみが分かっていなかったり、
今年のご復活節には主の復活の意味を深く味わうことで、人生の十字架の意味を悟らせて戴きたいと願っています。
このご復活節が、オブレートの皆様方とご家族の皆様方にとって復活された主イエス・キリストを身近に感じることの出来る日々と
なりますようにお祈り申し上げております。
最後になりましたが、オブレートの皆様との祈りの輪が大きく成長しておりますことを神様に感謝申し上げながら、
「ありがとうございます」をこの紙面を借りてお一人お一人にお届け致します。