第32号 2015年6月 発行 聖ベネディクト女子修道院
標題のツァーに参加したのが震災の翌年の平成24年でした。
震災後1年間は、マスコミ報道の夥しい量、選択の余地無く浴びせ掛けられていました。
私の五感もヒートアップ。
「いったい私は被災地支援に何をしなければならないのか。」「何が出来るのか。」
方向付けが定まらないままの1年間でした。
さかのぼると私は第2次大戦を幼児期に体験し、戦後のどん底生活も国民の一人として共に味わいました。
しかし、今回の大災害は日本全土に起ったのではありません。
日本の一部地方が被害を蒙ったのです。
被害を受けた者、受けなかった者と2分化されてしまいました。
幸い被害を受けなかった者は「ヤレヤレ良かった」で終わらせてはいけないと思いました。
その後もさまざまなマスコミ報道で被災地のようすを知ることが出来ました。知人からも現地の状況を知りました。
その頃札幌カリタスが、活動拠点を宮古教会に置き活動しはじめたことも伝えられました。
大変よろこばしいニュースでした。
しかし、私がその活動のボランティアの仲間入りすることは、とうてい及ばぬことでした。
即戦力には、とても成り得ないことを自覚していたからです。
被災地への思いを深める中で出会ったのが冒頭に記したツアーでした。
10名程の参加者と宮城県、岩手県の被災地を巡り、瓦礫の山、無残に曲った線路、若い女性が住民に避難を最後まで呼びかけ殉職した防災センターの錆びた鉄骨、
私の心に痛く突き刺さりました。
家業と自宅を失った皆さんとお話しながら郷土料理を食べさせて頂きました。
皆さんの体験内容は、哀しくて、つらくて語る人も聴く私達も泪でした。
その後、すっかり打ちとけ、思いっきり笑いもしました。
別れ際みんなで記念撮影となりました。たまたま私の隣に並んだご婦人は、「娘は孫を二人遺して流されて…私の心も流されて…。」と泪で語られた方でした。
撮影準備の短い時間その方と雑談し、私は素直な気持ちになれて「私は七十半ばになって、このツアーに参加し、皆さんとお会いできてよかったですよ。」
と話し終ると同時に私の顔(皺顔)を篤と見られ、「まだまだがんばらねぇば。」としっかりおっしゃったのです。
自から発した力強い言葉は私の心に染みました。
このツアーは、私の心を被災地へ一歩前進させるために有効でした。
それから2年の月日を経て神父様の移動があり私の所属する東室蘭教会に、宮古ボランティア活動の責任者でいらっしゃる上杉神父様が主任司祭として赴任されました。
折りに触れボランティア活動の現況を教えて下さいます。
宮古でのボランティア活動の距離感が、だんだん近くなって行きました。
そして平成26年被災地宮古でのボランティアへの参加を希望しました。まさかまさかのことでした。
ボランティアへの道を拓いて下さった要因はいくつかあります。
現在とにかくボランティアの人数が不足している。
同じ人が、1年に何度も何度も宮古へ行ってくださるボランティアに支えられている。
ボランティアの基準を強いて言うなら「家事を普通に出来る人であれば参加可能」と。
特に後者の「家事が出来ている者」に、参加出来ないと思っていた私の眼の前のハードルが低くなったように感じました。
支援ベースの宿舎も定まり先輩ボランティアの方達が被災者に何を為すべきかの基礎を築いて下さっておられる。
新人ボランティアは、自分の力量のところで働かせていただければよいのではないかと思い、丁寧な、温かい導きに支えられ宮古へ向かいました。
現地では、出発前に抱いていた思いと、現実は一致しました。
気持ちよく一日一日を被災者の皆さんと触れ合いました。
先輩の方達からも沢山の事を学ばせて頂きました。
祈りによって一日のスタート。祈りによって仕事の終り。
祈りの場の宮古教会は、私の教会に思えたほどでした。
宮古で出逢った方々から「来てくださってありがとう」の言葉を頂き思はゆいことでした。
帰路、夕暮れの三陸鉄道久慈駅で久慈工高生が、さり気なく荷物をホームまで運んでくれました。びっくりしました。そして温かさを感じました。
荷物を渡してくれながら「又来て下さいね」と言われ、その言葉を大切に心に収めました。
震災から育った若人の優しい心。
今後も、私の力量のところで働かせて頂きたいと思っています。
終わりに「ドキュメント震災三十一文字」(NHK出版)から被災者の心が伝わり来る短歌を紹介します。
津波引く時もまれゆきしか向き変り我の二階が千切れてありぬ
生きねばと仮設のそばの荒地借り記憶辿りて野菜種まく