オブレートだより

2020年6月 第37号 6月号 発行 聖ベネディクト女子修道院

オブレートだより

「ヨハネ・パウロⅡ世教皇書簡」の抜粋 2019年クリスマス号の続き

(聖ベネディクトゥス生誕1500年に際して発布された使徒的手紙)

神の探求

 ベネディクト的生活は教会においては、特に熱心な神探究として現われています。
神の探究は、≪教えと徳の頂き≫(戒律73・9。なお第二バチカン公会議文書、「教会憲章」9条、「エキュメニズムに関する教令」(2条参照)に到達しようと努力しているすべてのキリスト者の、天の故国にたどり着くまでの全生涯の歩みを、ある意味で特徴付けるものであるべきです。
聖ベネディクトゥスは注意深く目覚めた魂で、この道を定め、それに深く分け入っています。
彼は、その道中によくある障害や困難な点、また目的到達を阻んだり、すべての努力を無にしてしまういくつかの危険を特に示しています。
なぜなら、人間は≪人を虚栄や傲慢に引きずり込んだり、または気力をそいでしまう恐怖の中に突き落す無軌道な欲望のとりこになっているからです≫
(戒律・序言48参照)。

 私たちがこの≪生命の道≫(戒律序言20参照)を最後までたどることのできるのは、キリストを万事に越えて愛すると共に、本当の謙遜を保つという条件のもとにおいてのみであります。
その時こそ、キリスト者は自分の貧しさと弱さを知り、神の助けのもとにこの霊的道を歩み始めるのです。
つまり、彼は、自分を損なうすべての重荷から解放され、自分が一人の人間(ペルソナ)であるという自らの本来の姿に一層目覚め、魂の最も深いところに神を見出すのです。
愛と謙遜は共に成長して一つとなり、人間に働きかけて人を謙遜にし、次に来る人間の高揚に備えます。私たちの生涯は≪心の謙遜を通して、主により天にまで上げられるはしご≫(戒律7・8)だからであります。

隠世修道院生活と世への現存

 もし、隠世修道院生活をただ外部に表われる面から判断するならば、このベネディクト会的生活は、それを誓約している修道士個人には役立ちますが、他の人々に対する無関心へと容易に導き、社会的生活と真に人間的な問題から目をそらしてしまうことになると考えられます。
悲しいことに教会共同体の何人かのメンバーは、囲いの中で孤独と沈黙のうちに絶え間のない祈りに精進している生活をこのように考えています。

 確かに、修道士が潜心し、ヌルシーのベネディクトゥスに関して聖大グレゴリウスが言っているように、自分自身と共に住み、改しゅんの業によって魂を清め、修行に励んでいるとき、彼は自我の奴隷から自由になることを目指しています。
しかし自ら深く内省し、自分の上に注意力を集中することは、神と兄弟たちに対して一層真実に、また一層熱心に、自分の魂を開くための必須条件であります。
このベネディクト的隠世修道生活のディナミズム(力強さ)に生かされる時、始めてすべての隠世修道者がこの共同体の中に生きるようになり、そしてこの共同体が客に対する手厚いもてなしの場所となるのです。   
(次号につづく)               

-- 本文の「聖ベネディクトゥス」とは聖ベネディクトのことです。--

▶7月11日は、ベネディクト会にとって祭日扱いです。