2022年6月 第39号 6月号 発行 聖ベネディクト女子修道院
-- 2021年クリスマス号の続き --
(聖ベネディクトゥス生誕1500年に際して発布された使徒的手紙)
聖ベネディクトゥスは、この神のことばによって特に聖なる典礼へと導かれます。聖人は自分の共同体を、神の諸神秘を熱心に祝い、聖霊の中に汲みとられた共通の体験を一つの心で公言する、単なる一集団としようと努力したのではありません。
それ以上に聖人が心がけていたことは、告知され歌われる神のことばに、魂の内奥の感情が答えるということです。
≪私たちの精神が声に一致するように≫(戒律19・7)。
こうして聖書は深い祈りに結び合わされるとき、生き生きと理解され、味わわれ、愛をもって読まれるようになるのです。
愛にかられた魂は神のうちにしばしば潜心します。
≪何ものも神のわざに優先させてはならない≫(戒律4・55、56。43・3参照)。
典礼の祈りは生活の中に移されて行き、生活自体が祈りとなります。祈りは一たん典礼が終ると、ますます大きな輪となって伝わっていき、魂は静寂と潜心のうちに憩い、こうしておのおのの人は孤独のうちに個人で祈るようになり、祈りの習慣は日々のすべての行動と瞬間に浸透していきます。
神のことばに対して燃えるような熱情を持っていた聖ベネディクトゥスは、それを聖書の中ばかりではなく、大自然といういわば部厚い書物のなかに読み取っていました。
人間は創造の美を観想することによって、魂の奥底から揺り動かされ、大自然の源であり創造主である神へと引き戻されて行くのを感じます。この真理を尊重しつつも、同時に人は自分が発見したこの美しい自然に対し、一種の敬けんな気持ちさえ覚えるようになります。
≪沈黙が広がるところ、祈りはそこを通って言葉になります≫
(パウロ6世教皇のベネディクト会男子修道院長たちへの講話。1971年9月8日。AAS63 (1971年) 746頁)。事実祈りは、孤独のうちに人間がある意味で豊かになるとき成長します。
このことは聖ベネディクトゥスが神と一対一になって過ごしたアンヤンの未開の谷についても言えますし、またさまざまな技術手段に富みながらも人間を疎外させ、結局現代の人間をしばしば孤独と自暴自棄に陥らせてしまう都会についても言えます。
しかし、人間は砂漠である程度訓練されなければ、真の霊的生活を送ることが出来ません。
なぜなら、この砂漠は空しいことばを避けさせ、神との親しい関係を容易にし、また人々や物事との関わりを円滑にします。
砂漠の沈黙のうちにある種の厳格さが効を奏し、人間関係のさまざまな面が、本質的なもの、第一義的なものへと引き戻され、それと共に心は浄化され、魂の内奥から神に立ち昇る日々の祈りの習慣が取り戻されます。
この祈りは、神に向かって多くの言葉を発することによってではなく、
≪火のように燃え立った心の清さと回心の涙とのうちに神に聞き届けられるのです≫
(戒律20・3。52・4参照)
(次号につづく)