発行 聖ベネディクト女子修道院 2009年12月 第30号
*** 2009/9/10 トニー・ゴルマン神父様 三位一体ベネディクト修道院 ***
私の母院であるアメリカ・ミネソタ州の聖ヨハネ修道院の修道院長が、何年か前に次のように言いました。
「修道院にはたった一人の修道院長しかいません。
院長の私を含めて、修道者は、修道院長について書かれたことを心に留めて、
それぞれが置かれた状況の中で応用するように促されています」と。
その時、私の修道院長は例をあげて勧めました。
「例えば、学校で生徒と関わっている修道者でも、修道院長の特徴から参考になることが引き出されます」と。
たとえ個人の家庭での生活に於いても、修道院ではなくとも、聖ベネディクトが述べている修道院長の特徴を参考にすることが
出来るでしょう。
他の箇所に書かれているように、私達はどんな人でも、又どんなに長く修道院で生活していても、オブレートであっても、
キリスト者であっても、常に修練者・初心者であって学び続けなければなりません。
また新しく学ばねばなりません。
聖ベネディクトが戒律で修道院長について書いた箇所は、2章と24章ですが、時間があったら戒律を全部読むと良いと思います。
戒律の、ある所は時代遅れになっていますが、1500年経った今でも、戒律の中には貴重な気付きがあると思います。
戒律の2章に「修道院長は修道院においてキリストの代理者であると信じられており、それゆえに『アッバ父よ』と呼ぶのである。」と述べられています。
つい最近までシスター達は、修道院長を「マザー・母」と呼んでいました。
ある修道院では、今でも、その呼び名で呼んでいると思います。
この言葉は尊敬の気持ちを表し、また永続的な意味を持っています。
父や母は生命を与えてくれる人です。
そして私達は誰であっても、その生活の中で話す言葉は、「生命を与える」か「生命を与えない」かになります。
もちろん 私達は、私達の言葉と行いが、他に生命を与えることを望んでいますので、自分はどうなのかを、
時間をとって祈り考察する必要があります。
そして正しい方向に 歩む努力をしましょう。
たぶん、ある人は、まだ若く、親も生きておられ、人との関わりにおいて生命を与えるということは、まだぴんと来ないかもしれません。
生命を与えるとは2つの道があります。
若い人は、お年寄りや両親との生活を彼らとの接し方によって高めることが出来ます。
お年寄りも年長者の方法で、若い人の生活を向上させることが出来ます。
聖ベネディクトは院長を、「キリストの良き牧者」として描いています。
私は院長、司祭、司教、教皇など責任ある立場にある人は、皆、「牧者」と呼べると考えています。
と同時に私達は、お互いに「牧者の役」を持っています。
これは本物の羊にとって本当のことです。
それは一匹の羊は、常に他の羊を真似て行動します。
私達の生活でもそうです。
私達が示す手本や勇気付けは、旅の途上にある他の人を助けます。
聖ベネディクトは修道院長が羊の為に良いことをしたにもかかわらず、羊は聞き入れないという事実に注目しています。
私が自分の成長過程に於いて経験したことは、子供達が決定したことが両親にとっては気にいらないことがあるということです。
私の両親も、私の決定に失望したことがありました。
ただ私の間違いは私の両親の間違いではありませんでした。
どのような状況の中にも失望はあります。
そのような時は間違いから何かを学び前向きに生きることです。
そのような訳で聖ベネディクトは、戒律の第4章で「神の慈悲に対して決して望みを失わないこと」と言っています。
キリストの生涯は神の慈悲を私たちに示しています。
修道院長の生き方はキリストの生き方を常に思い起こさせるものです。
実際にすべての修道生活やキリスト者の生活はキリストが中心となる生活を表したものです。
そのような訳で、聖ベネディクトや教会の典礼の暦は復活祭から始まり次の復活祭へと向けられています。
だから戒律では、聖体拝領の大切さを伝えていますし、第2バチカン公会議では、ご聖体の全てから溢れ出る典礼を祝うように述べられています。
私達のご復活とご聖体の祝日は、キリストに於いて示され、神の偉大な愛のお祝いです。
洗礼によってキリスト者となった私達は、この愛を知り、それを全世界に広めることを望んでいます。
聖ベネディクトは、戒律の64章に次のように述べています。
「修道院長は神の法に通じ、新しいものと古いものの知識を駆使するに当たり、どこにその宝庫があるかを知り、またそれを自ら所有し、
さらに純潔で節度あり、憐れみ深く、自ら同じ憐れみを受けるように、常に憐れみが裁きに勝るように心がけます。
悪習を憎み、修友を愛さなければなりません。
叱責する際は慎重に行い、さびを落とすことを望むあまりに、器を破壊することのないように、何ごとも度が過ぎてはなりません。
また自分自身の弱さを常に忘れず、傷ついた葦を折ってはならないことを念頭に置くべきです。
このように言う時、悪習のはびこることを認めるわけではありません。
むしろ、既に述べたように、修道院長は最良と思われる方法で、慎重にまた愛をもって悪習を根絶し、
こうして、恐れられるよりも愛されるように努めなければなりません。
興奮せず、気をもまず、度を過ごすことなく、強情でなく、嫉妬せず、過度に疑い深くあってはなりません。
そのような者は、一刻も心の休まることを知らないからです。
自ら命令を下すにあたって、遠くをおもんばかり、慎重であるように心がけ、また作業を課すにあたっては、それが神に関することであっても、
世俗に関することであっても、思慮深くまた節度を守り、聖ヤコブが、私の「羊の群れを無理に追い立てるなら、
皆が一日のうちに死んでしまうであろう」と言った、その言葉が示す良識ある判断に関するこの言葉あるいは同じたぐいの言葉を手本として、
全てにおいて節度を守り、強い者はより以上を望み、弱い者は逃げ出さないように配慮します。」と。
これらの言葉から、聖ベネディクトは慎重さと節度の持ち主であるとの評判を与えています。
最後の言葉に、「強いものは、より以上を望み、弱い者は逃げ出さないように配慮します」というのがありましたが、
ここで私は二つのことに気付きました。
一つは、私達は生きているうちに、弱くなったり、また強くなったりするということです。
二番目に、修道院長は修道者の性質はそれぞれ異なるので皆を同じように扱うことは出来ないということです。
私達の生活の中でも、時によって異なることを求められます。
ここで私は母の知恵を思い出します。
私があるとき私の兄弟姉妹について、母に次のような質問をしました。
「私はお母さんが皆を同じように愛していると思いますが、そうですか?」と。
母は、「私は子供たち全部を同じようには愛していません。
なぜなら、あなたがたは皆違いますので。」と答えました。
年が経つにつれて、この言葉は私にとって意味深いものになりました。
これは、私の母は一人の子供を他の子供より可愛がったという意味ではなく、
子供たち全員に変わった愛し方をしたということを素直に認めたということです。
たぶん全てのご両親にとっても同じ事だと思います。
また全ての修道院長や、上長者に於いても同じ事だと思います。
神様も同じです。
神様は私達一人一人を、こよなく愛しておられますが、私達が皆違っているように、それぞれ異なった愛し方をなさいます。
また私の父は、私が26才の時、事故によって不慮の死を遂げました。
私達家族は大変な悲しみに沈みました。
その時はあまり分かりませんでしたが、今思うと母にとって大変な時であったと思います。
母は54才で夫を亡くし、24年間、未亡人として生きてきました。
どんなに困難な時も、私達は前向きに生きてゆくことができました。
なぜかというと、私の父は信仰の人でした。
彼は常に祈っていました。
彼は私達にこの世を超えた生命のあること、そして死に直面することは終わりではないことを教えました。
彼の信仰は概念ではなく、他者を気遣う生き方でした。
私の父が信仰の人であったので、私達が前向きに生きられるように助けてくれました。
とても悲しいことがあっても、希望を持って生きることが出来ました。
この世の生の終わりがいつか来ます。
聖ベネディクトは「死の思いを日々心の眼の前に掲げていること」と言っています。
しかし、初めにも述べたように、キリストに於いて私達に示された神の愛と憐れみの故に、私達は希望の中に生きることが出来ます。
私達一人一人の生活に於いて、良い修道院長、良い上長者の特徴を心に留めていきたいものです。
これらの人は希望を持つことが出来ることに感謝しています。
希望は他者に与える為に神様からいただくものです。
ベネディクト会のオブレートとして希望をいただき、主に従って毎日を過ごしましょう。
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