カトリック生活三月号 〜特集・孤独死問題を考える〜を読んで

 孤独死、孤立死、無縁社会…どのことばを聞いても、寂しさ、わびしさが感じられ胸がしめつけられる思いがする。
母の突然死から17年、あらためて「孤独死・孤立死」について考えさせられた。
当時も今も「ひとり暮らしであり」、「誰にも看取られずに」、「死んでいた…発見が遅れた」。
このことが「孤独死・孤立死」といわれる所以である。

 果たしてそうなのか。
以前耳にした「ひとりでいることと孤独とはまったく違う」ということばを思う。
家族と暮らしていても、入院、入所して人に囲まれていても、孤独、孤立を感じている人は少なくない。
一方で、ひとりで暮らしていても喜びをもって生活している人も多い。
また「ひとりでも孤独でいるほうが、家族や誰かと一緒に暮らしていて孤独よりはずっといい」ということばもよく聞かれ、うなずけられないこともない。
「ひとり暮らし」をされる方の事情は十人十色、千差万別で、その胸のうちは測りようがない。

 私の母の場合、息子、娘たちからの同居のすすめに、「元気なうちはひとりで生活したい」と言い、私の「いずれ同居するならば元気なうちの方が…。
年を取ってからではお互いに…」という世間一般のありきたりのことばには返事がなかった。
父は49歳で病死し、それ以後は47歳であった母が女手ひとつで私たちを気丈に育ててくれた。
当時の母の年齢になった時に、つくづくと思ったことは「私たちがあるのは、母の天性の明るさ、陽気さはさることながら、 なによりも母なりの強い信仰に支えられた日々があったからこそ」という切実な実感であった。
私自身内心は、「父亡き後、子供たちのために働き、ようやく子育てから開放されて自由になったのだから…」という思いはなかった訳ではない。

 母は誰しも願う「ピンコロ」(ピンピン働き、コロッと逝く)と「タタミの上で死にたい」(病院では死にたくない)、というのが口癖であった。
私は生意気にも、「人生、そう簡単にはいかないわよ」と笑った。
しかし神様は、父亡き後、母の苦労多き人生の晩年に、この二つの願いだけは叶えてくださったことを今は感謝している。

 年齢を重ねて思うことは、人それぞれ幸せ感は異なる。
年老いても自分自身の生き方は、自分で自由に決められたら幸せと思う。
世間には孤独死と思われようが、死の間際まで本人が幸せに生きるほうがどんなに良いことかと今は思える。

 ただし誰しも生まれてくる時と死ぬ時にはひとりであるが、どちらも何らかの形で生きている人の助けを必要とする。
将来の老、病、死を見据えてこそ、今をよく生きることが出来るのではないだろうか。

 そのためにも、「どうしたら孤独死をしないですむか、させないか」を本人も周りも考えなければと切実に思う。

 もし現在の生活が孤立していると感じるならば、勇気をもって、周りの人に声をかけたいし、そして周りも勇気をもって、声をかけて見守り、その人らしい人生を応援していきたい。

 緊急連絡、携帯ベル、設置ベル、ご近所と、あらゆる手を尽くして備えていても、母のように想定外のことが起こりうる。
だがこの苦い体験をもってしても言えることは、緊急時に気づき孤独死を無くする一番の手立ては、昔同様、ご近所や地域社会との繋がりを密にすることではないだろうか。

 現代は個人情報の守秘義務などが重視され、互いにかかわらないことが一番とされる風潮にあるが、互いに抵抗があっても、 今日の無縁社会の歯止めのために何らかの方法で、「私は生きているというメッセージ」を発信出来ればと思う。
そして家族は勿論のこと、周りの人も、少なくとも相手の一日の元気を自分の目、耳で確認することが大事である。

 これは遅かれ早かれ誰しも歩む道である。
生きている人間の務めとして、この世への誕生と同様に、死に逝く人の「新しい復活の生命への旅立ち」を祝福できたらと思う。

 この何年か、身内の急な病や死に直面しつつ、「明日は我が身」と、「元気なうちの身辺整理」を始めている今日この頃である。
昨今とみに「断捨離」という言葉が流行し、巷に書籍があふれている。
身も心も軽くなり良く生きるには、整理するに越したことはない。
またその過程で新境地も開けるかもしれないと私は思う。

 ここで「だが待てよ!」と、もうひとりの自分がささやく。
「皆そうとは限らない。人それぞれ、人生の価値観は異なる。『捨てる霊性』は、仏教、キリスト教にも、他の宗教にもあるが、 物が捨てられず家が散らかっているからといって、天国(極楽)に行かれない話など聞いたことがない…」。
このことば、以前、母にも話し…さらに母への元気づけに「昔からゴミの神様だっているじゃない!」と付け加えたことがある。
この突拍子も無い私の言葉に、思わず声を出して笑った母の笑顔が懐かしくよみがえる。

 兎にも角にも、誰が生き残るかは定かではないが、少なくとも死後、責任のとれない自分の身体と遺品の後始末だけは、第三者に託して置きたいものである。
これだけでも老いを生きる一番の安心を得られるはずである。

 共に老いに向かって歩みつつ、自分自身も少し先の旅立ち準備を自ずと始めていることに気付かされる。
先に天国へ旅立つ人々からの贈り物は何と素晴らしく尊いものかと心から感謝している。
永遠の生命への主の導きに全てを委ねて、共に支え合い助け合って、いただいた人生を生き抜きたいものである。            Sr.Y


 弟子たちに支えられて、
立ったまま手を天に上げ、
祈りながら帰天する聖ベネディクト