使徒的運動とレクチオディヴィナ

(世界修道会連盟の記事より抜粋)


毎日私たちには、直面しなければならないたくさんの矛盾することや困難な状況、つまりコミュニケーションの難しさ、失望、何も生み出さない事柄が運びこまれてきます。
それで勇気をなくし、もはや多くの努力やたくさんのエネルギーを使ったことに何の意味も見出せなくなることはたやすいです。


 けれども、このことは神の中に、また神が私たちを愛してくださっているという確信の中にのみ理解することができます。
それで神に質問するために神に帰っていく、ということがどうしても必要になります。


 何故なら、神がどうしてそのようなことが起こったのか各々道理を私たちに示してくださり、あるいは毎日の十字架を私たちが担う力を与え、それを十字架に生きる道として見ることができるようにして下さるからです。
み言葉は信仰と生活を結び合わせる機会を私たちに与えてくれます。
人がどんな時にもどんな所にいても、神を知ることができるのは信仰の光のうちに、かつ聖なるみ言葉を考察することの中にのみできることだからです。
私たちは神のうちに生き、動き、存在する(使徒言行録17・28)。
そして、全ての出来事のうちに神の意思を探し求め、身内のものであれ見知らぬ人であれ、全ての人のうちにキリストを観想し、そして、物事自体と人との関りの中にその意味と価値とを判断するのです。


これが私たちのミッション(使命)、すなわち神が事実現存して生きておられ、活動しているという力強い真実に目を開くためにみ言葉に耳を傾け、 そしてまた、神のうちに私たちは永遠の命を持っているのだという確かさの中で、世とは異なる、神の国の価値基準を持って、このように私たちの人生を生きることがそのミッションなのです。



主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。
あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。
主はすぐ近くにおられます。
どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。
何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。
そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。  (フィリピ4・4~7)


 賛美歌461・主われを愛す


  1 主われを愛す、主は強ければ、われ弱くとも、恐れはあらじ。


   (おりかえし)
    わが主イエス、わが主イエス、
     わが主イエス、われを愛す。


  2 わが罪のため、さかえを捨てて、天よりくだり、十字架につけり。


  3 みくにの門を、開きてわれを、招きたまえり、いさみて昇らん。


  4 わが君イエスよ、われを清めて、よき働きをなさしめたまえ。


(院内訳)

花