「ヨハネ・パウロⅡ世教皇書簡」の抜粋

聖ベネディクトゥス生誕1500年に際して発布された使徒的手紙(2020年6月号の続き)

 

囲いの意味


 聖ベネディクトゥスは、修道家族の一員となることによって、神に至る大道を遍歴しました。
修道院の共同生活、それは聖人の表現によれば、特権的な場所で、そこに住んでいる人たちは相互に従順を実践することによって、心広くなっていきます。
つまりその場所では、隣人への熱烈な愛に心を誘われ、ゆり動かされて自分の利益をかえり見ずに、兄弟への奉仕に身を呈し、その利益をはかります。

 もし毎日の努力の中で、瞑想と謙遜という(決して副次的なものになり得ない)必要な「わざ」と、共同体生活への参与(これもまた衰えることのあり得ないもの)に同時に献身することを知っているなら、他者、とり分け「絶対的他者」である神との関わりを持つ能力――それは真正な人格を生み出す能力ですが――のうちに強められることでしょう。

 事実、聖ベネディクトゥスならびに彼から発する伝統に固有な共同生活と、そのような生活を送る人びととをこのような観点から考察するとき、すぐに分かることは、隠世修道共同体は決して閉鎖的な園ではないということです。
確かに囲いは社会から隠世修道士を分離し、また踏み越えてはならないあらゆる空しい散漫に対する防御壁となるべきものです。
しかし、囲いによって愛から切り離されるものではないし、また愛の外に締め出されるものでもありません。

その反対に、このような囲いは、内的自由に必要な空間を提供するものであって、そのような空間でこそ修道士はもとより、ある意味で自分の≪小さな囲い≫を保つよう心がけているすべての人は、愛の内に生き、かつ成長してゆくことが可能になるのです。
すなわちその空間でこそ、隠世修道士は他の兄弟に対して心を開き、神との一致において自らが体験するものを兄弟たちに分け与えることができるのです。

教皇パウロ六世が賢明にもおっしゃったように、隠世修道士の隠遁所は、≪人々が自分自身を見出し、自分自身の内部で神を再発見できるような祈りと平和な家として、常に人々が参集する場所≫(パウロ六世がウエストミンスター首位大司教へーナン師に宛てた書簡。
AAS六七 (一九七五年)四七四頁)となるのです。

修道院は≪主に奉仕する学校≫、すなわち≪観想と徳の学校となって、そこから福音や伝統的教義や教会の教導権について明瞭で確固とした教説が豊かにあふれ出る≫(同上)ところとなるのです。
隠世修道士は、空間と時間のあらゆる制約を乗り越えて、すべての人と、またひとりひとりの人と、祈りによって関わりを持つようになります。
もしこれらの条件がすべて満たされるなら、聖ベネディクトゥスの修道士は現実にすべての人の兄弟、福音宣教師、そして平和と愛の使者となるでありましょう。


(次号へ続く)