会員が登別教会の「おとずれ」に投稿された文章を再度加筆して「オブレートだより」に寄稿して下さいました。

人の逝く先は・・・ヨハンナ・パウラ 福田比奈子

 今年も、緊急事態宣言が出る度に、当たり前のように与っていた毎日曜日のごミサが無くなり、自粛生活を送る中、我が家も色々な事が有り、泣いたり笑ったりの数か月間でした。

 孫達が避難して来た数週間。
オンライン授業(?)に付き合ってはみたものの、パソコンの動きについていけず、自分の頭に自信喪失。
10代の孫達にしがみついて暮らした日々を思い出しています。

 そして、親しかった友人の葬儀には、飛沫防止の為にお別れが出来なかった悲しい出来事。
今も彼女を思い出しては涙することがあります。
 私の実家は浄土真宗本願寺派。いわゆる門徒宗と呼ばれている宗派の信徒で、家の仏間には畳一畳ほどの大きな仏壇がありました。
 跡取り娘であった、明治28年生まれの祖母が物心ついた頃にはすでに置かれていたそうですから、相当に古いご先祖様のお位牌があったようです。
お盆や年の暮れには、跡取りの私の父や孫である私の弟が祖母の横に座って、沢山の仏具を磨いていた風景が浮かんでまいります。

 一人身だった、その弟が一昨年亡くなり、空き家になった実家に仏壇が置かれたままになっておりました。
 新盆の昨年、この仏壇やお位牌をどうしたらよいのか?と、途方にくれ、お寺のご住職に相談致しました。
私も妹も嫁ぎ先のお仏壇をお預かりしている身であるために、悩んだ末のご相談でした。

 「少しも心配はいりませんよ。仏壇は人間が作ったものであって仏像やお位牌を安置する壇です。
仏壇に手を合わせるのではなく、亡くなったご先祖様を思い出し、感謝し、今日の平安を祈るためなのですよ。」と言って戴きました。
 「あの世に行って、ここからここまでが浄土真宗、あちらがキリスト教、こちらが日蓮宗など、壁も看板も肩書も有りません。宗派によって違いなどなく、ご浄土に行くと、皆、平等なのです。」ともおっしゃって下さいました。

 仏像に手を合わせるのではなく、天の神様を思い、ご先祖様の安らぎを願い、今日の一日を感謝し、世の平和を祈るカトリックと少しも変わらないではないかと、安堵し、そのお話を伺った日を今も忘れられません。
人の逝く先を考えさせられました。
その後、実家の仏壇やお位牌を、心を込めて処分し、実家の過去帳を日々目にして、ご命日に手を合わせている近頃です。

 「門徒、物要らず」という言葉は、決して後ろ向きの言葉ではないのですね。
「立派な家柄も役職も、お金の有無も、豪華な祭壇もお仏壇も、そして、長々とした戒名も関係なく分け隔てなく神様のみ許に行けるのだと・・・」ということを、門徒宗のお坊さんがお話下さいました。
それこそが、本当の自由、平等につながるカトリック精神に通じるのでは・・・と感じ入りました。
皆様のお考えを、直接お聞き出来ず残念ですが、この度、分ち合いました。