童話『幸せな王子』から

絵本大好き姉ちゃん

 

 クリスマスが近づき町に粉雪が舞う頃になると決まって、母が読んでくれた童話を思い出します。
それは、オスカー・ワイルドの『幸せな王子』という童話なのですが、あのツバメは可哀相と子供心にもツバメに感情移入して、哀しい気持ちになったものです。

 ところが自分が孫に昔話をするような年齢になって、大学の講義の中でまたこの物語に出会ったのです。
そして、ハビエル・ガラルダ師(イエズス会)に『幸せな王子』の物語を通して、自分を犠牲にする人間ははたして幸せといえるだろうか?
つまり幸せとは一体何であろうか?と問い掛けられたのでした。

 あのツバメは幸せだったと言えるのだろうか。
温かいエジプトに行こうと思って、王子様の貴重な像の足下で一休みしていたところ「ツバメさん、ツバメさん」と王子様に呼ばれ、窓から見えるお母さんが大変な病気の娘のために、薬と食べ物を買うお金がないので、自分の刀のルビーを取って飛んで持って行ってくれるように頼まれる。
しかし、エジプトはツバメの幸せであった。
仲間は向こうで待ってくれているし、イギリスの秋は寒いのでツバメは断ります。
でも「ツバメさん・・・」と言われて「それでは今夜だけね」。
あくる日また肺結核に罹っている貧しい大学院生に、目のダイヤモンドを持って行ってあげるように言われる。
その翌日もまた雨の中でマッチを売っている可哀相な女の子に、もう一個のダイヤモンドを持って行ってあげるように頼まれて、・・・。


 ところで、このツバメは私たちのことだと思うとガラルダ師は言うのです。
奥深い自分はその王子様に当たる。
私たちは仲間、健康、出世、まともな理想、つまり自分の幸せだと思われるエジプトを犠牲にするように頼まれることもある。
身体を壊した親とか、不幸に遭った友人とかいうような出来事は私たちのエジプトを妨げる、奥深い自分からの呼び掛けになりうるのです。

 でも、この童話のツバメはその後、町中を飛んで困っている子供達の上に、王子様のマントからの金を一枚ずつ落としながら、だんだん寒さに弱ってゆく。
最後の一枚を配ってから戻って来て、子供達がみな大変喜んでくれたことを報告しました。
「今度こそエジプトに行ってらっしゃい。本当に有難う」。
「いや、もう帰ってこられない旅にでかける」と言って、王子様にキスをしてその足下でツバメは静かに死んだのです。

 可哀相といってよいのか、羨ましいと言ったほうがよいのでしょうか。
そのツバメは奥深い自分に忠実であったため、幸せだと思ったエジプトを犠牲にしたので彼女は幸せだったと言えないでしょうか。

 「幸せ」とは感じられなくても、隠れた川底を絶えず流れているような生き方そのもののようです。
そして、この深い幸せの求め方はよく、次のような譬え話で描かれます。
私たちは生まれる時、畑を頂いているのです。
人生の象徴であるこの畑の中には自分の幸せが隠されているので、真剣にそれを探すのが人生の生まれながらの課題と言われています。

 幸せは周りからの贈り物でありながら自分の手で作り出す、地味な仕事であり業でもあるのです。
私たちも焦らず、慌てず、諦めずに自分の畑の宝を探し求め続けたいものです。