一神父様の黙想講話の抜粋

 私たちはどのようにしてイエスに敬愛を表したらよいですか

 カトリック信者が秘跡のパンとぶどう酒の中のイエスの真の現存を信じることは大切なことです。
しかし、それはイエスの名において2〜3人が集るといったような、他の形式でのイエスの現存を否定するものではありません。
イエスは今、部屋の中で私の向かいに座っている人の中にも現存しているのです。どのようにして私たちはその彼女の中におられるイエスに敬意を表したらよいでしょうか。

 あなたが洗いたくないと思うのは誰の足ですか

 愛とはあらゆる人に対して示される行為であって、その人たちがあなたをどう扱っているかには関係がありません。
ヨハネ福音書の洗足の話の中で、このことを見ることが出来ます。
その時イエスは使徒達の足を洗いました。
イエスは自分を裏切った使徒のユダもその中に入れていたし、自分を否んだ使徒ペトロや自分を疑った使徒トマスも入っていました。
 行動的な愛のドラマチックな例はマザーテレサにも見られます。
マザーは誰もすすんで触れたり、助けたりしようとしない人々の世話をしました。
腐敗した政府の悪人達の手にかかって殺されたオスカーロメロ大司教もいますし、虐げられている人々を助けようとしない制度を変えるために働いた、社会活動家のドロシーデイもその例に入っています。

 ゆるしへの招き

 アダムとイブの物語は私たちが自分の罪を告白しようとするより、むしろ隠そうとする時に何が起きるかを示しています。
非常に大事なことは、隠すということは、神から、そして又お互いとからも自分を分離させることになるということです。
アダムがイブを非難したようにイブは蛇を非難し、彼らは自分たちと神との間を隔てる壁を作ってしまいました。
衣を着ることで、さらにこの隔たりを加えました。
ついに罪は、カインとアベルの物語のごとく、次の世代に続いていきます。
許すことは和解を生み出します。
そして和解のお陰で私たちはお互いに誠実なコミュニケーションを取り戻すことが出来るのです。

 見ること…そして生み出すこと…恵み

 希望は希望的観測ではありませんし、簡単に割り切った楽観主義でもありません。
希望とはWalter Burkhart(イエズス会士)の言葉を借りれば、期待を持って強く望むことです。

 つまり私たちは、この世界の中に否定的なものだけを見るのではなく、恵みが存在することも見るように招かれています。私たちは希望の働き手となるように召されているのです。
私たちはトンネルの終りにある光は、私たちを待っている神であることを見、かつ分ち合うようにと招かれているのです。
 希望の実は喜びです。そして神は喜びの真中に住んでいます。


***** 神父様の黙想講話 *****